ヌーソの皿の上

福祉とpc関係の記事です

保育園は変わったのなら

不適切保育の記事を書いたのは、昨年2022年9月のことでした。

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まだ世間ではなじみのない言葉だった頃に書いたことを記憶しています。

 

この後、静岡県で送迎バスの置き去り事件が2022年10月に起き、12月には同じ静岡県裾野市で起きた、保育園虐待問題が大きく取り上げられました。

 

この事件を皮切りに全国で調査が行われ、全国の保育園で虐待・不適切保育の報道発表がされました。

nu-so.hatenablog.com

 

振り返れば、この一年保育業界に注目が集まり、保育そのものも大きく変化したように感じています。

 

その保育業界で、次の起きることは何だと思いますか?保育園・保育士の浄化が結末ではないと私は思っています。

 

 

1.不適切保育


なぜこんなに、不適切保育が保育園にはびこっていたのでしょうか?

いえ、それよりもこの「はびこっている」などと批評した人は何が原因だと思っているのでしょうか?

大体この対となる答えで出てくるのは、

・保育園の急造

・保育士不足

・保育士資格取得者の大量誘導

・保育の質の確保を計画できない官僚の無知

というものをよく目にします。

 

これらは一因ではあっても、適切な把握ではないと思っています。

 

一番の原因は、これまでの慣例、伝統の保育にこだわった古い世代の認識不足です。

保育には、「園児を厳しく促す言葉と多少の体罰は許される」という時代錯誤を起こしたままの保育士が大量にいたということです。それが如何に子どもの成長を促すもの、安全を守るためであろうと、もう許される時代ではないのです。

だいたい子どもの体罰は親でも児相が動く時代で、親でも許されない時代に、保育士が許されるわけがないのです。

 

つまり、はびこっていたのではなく、時代についていけない伝統にしがみついたベテランがいたということです。

そのベテランらが学生時分には、「子どもの権利に関する条約」は制定されていたんですから。

1989 (平成 1 )年 1 1 月 20 日 国連総会「子どもの権利に関する条約」

https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/zenbun.html

 

30年以上の時代遅れだったんです。

 

2.保育園が変わる約束

 

 それでも日本の保育は我々に任せていただきたいです。我々はこれを機に必ず変わり、みなさんに変わったといわれるように努めて参ります。これから真のベテランに変わることは間違いありません。それだけのキャリア・経験・実力が裏付けとなり証明されるものと思っています。なので温かいご支援・ご鞭撻をいただければと思います。

 

そして保育・保育士・保育園は変わる前提で、話を続けさせてください。

 

保育園が変わる・変わったのなら、もう昔のやり方には戻れないということです。

そして我々福祉従事者に向けられた厳しい目線は、今度はもう一度家庭に向けられるということなんです。

日本の子どもの権利擁護の基準が上がるということは、今まで以上に親御さんたちの子育てにも厳しい視線が向けられるということにつながります。



3.もう一度家庭に戻る

 

もう一度蒸し返せば、不適切保育はなあなあで済ませた保育士たちの伝統です。これまでの保育、子どもへの接し方の見直しが進まなかった結果です。

ですが、我々日本人は勤勉です。基準が変われば必ずその基準に準ずるよう努めます。勤勉なだけに、厳しくなりすぎ、過度になることも多いくらいにです。過度な変化の弊害も我々は分かっているから、なあなあで済ませてきた部分もあったということなんです。

 

そして自分たちに課した厳しさは、必ずと言っていいほど人にも向けられるものです。

 

これは保育園に向けられていた基準は、家庭にも向けられることを意味しています。

 

子どもの権利が向上することは喜ぶべき結果と言ってもいいでしょうが、すべて向上につながるかは疑問ですよね。「保護者にとってもいいことばかりなのか?」なんです。
一番憂慮しているのは、発達障がい児への家庭です。

 

介護上がりの私から見て、保育現場で一番印象的だったのは、子どもに大変厳しい親の存在でした。

特に発達の遅れのあるお子さんを持つ親は、「厳しく育ててれば大丈夫。」と口にすることが多いように感じます。

「うちの子は、のんびり屋で個性が強いだけなのに、発達障害を怪しむのは偏見で差別だ。」

「こんな早いうちに、療育手帳を勧めるなんて、この子がかわいそう。」

「生まれて数年しか経っていないわが子の成長を、保育園で決めつけている。」

「小学校に上がるまでに厳しく育てれば、うちの子は大丈夫なんだ。」

 

これらは、親のエゴではないでしょうか?

そして、「障がい者は不幸である」という決めつけによる偏見です。

小学校の一般クラスにしがみつくことが、本当にお子さんにとって最良の選択なんでしょうか?


発育外来を勧められたことに反応し、例えば平仮名、数字に足し算引き算、果てには掛け算まで覚えさせ、強く一般クラス行きを保育園や学校にアピールする。そして自分はPTAに入り「子どもを見守っていく。」という親御さんを複数人見てきました。

小学校というところは、保育園よりもっと一緒くたに子どもの教育をする場です。それでは子どもへの配慮が足りないからこそ、支援クラスにも分けられている場所なんです。

 

保育園の様に複数の保育士先生がいない場所なのに、学習能力ばかりに目を奪われていたら、どうやって子どもの安全を守るというのでしょうか?



4千差万別の履き違え


先日こんなニュースがありました。


札幌 教育委員会「いのちの補償がない」

https://www.nikkansports.com/general/news/202307040000681.html

 

このニュースは特別支援学級での出来事ですが、「(児童の)命の安全を保障することができません」という表現にyahooコメントなどでも、学校側に同情的な意見が目立っていました。

 

自分でも育てることが難しいと感じ、保育園でも特別に専属で保育士がついていてもあえて目を背けることが真の子育てでしょうか?

 

もし自分のお子さんが保育園なりで、ヒヤリハット報告や事故報告が多くても、小学校に上がれば安全は保てるでしょうか?

 

子どもの権利擁護が向上するということは、子どもの成長過程だといって目をつぶっていい箇所はなくなることではないでしょうか?「今は成長段階だから」というよりも、「より安全を保つためには早急な対応を」と変わっていくとは思えませんか?

子どもの成長から見れば、もし一般クラスに執着することは親のエゴと判断されれば、「不適切」な行為だとは思わないでしょうか?そして日本は、過度に基準が進む国です。安易に発達障がいの診断数が増えていく結果も招きかねないとすら私は思っています。

 

大切な国の宝である子どもたちを、どう守りどうやって成長を促すのか、見直す時期が迫っていると思います。