1.ボランティア元年
前も書いたんですが、私はボランティア元年などと言われた時代の頃、学生でしたがこの業界に入門していました。
ウィキペディアにもあるように、この言葉は阪神・淡路大震災後の復興支援のため、市民の災害ボランティア(※1)が活躍したのをきっかけにできた言葉です。
この震災を機に、これまで未曾有の災害が日本各地で起きるたびに災害ボランティアが活躍してきました。この言葉ができた頃は、何か手伝いたいという気持ちの人が集まるばかりで、なかなか成果に結びつかなかったなどとも報道されましたが、今は災害発生後には各都道府県で即時組織化もされるようになったようですね。
このボランティア元年という言葉のおかげか、その当時、福祉施設のボランティア活動も活発になりました。
神戸連続児童殺傷事件(※2)や附属池田小事件(※3)の関係で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%84%E5%B1%9E%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%B0%8F%E4%BA%8B%E4%BB%B6
保育所のボランティア受け入れは少なかったんですが、高齢者施設でのボランティア受け入れ先は多くあったと記憶しています。
高齢者の数が増大し、高齢者施設が乱立した今からすると、そんな時代があったのかと大よその想像もできないものだと思います。ですが、高齢者施設にボランティアに行くにしても上記の事件の関係で、身元保証がないと福祉施設にボランティアの受け入れさえしてもらえないような時代でした。
福祉施設に行ったそのボランティアたちは何をしていたかというと、もちろん高齢者の話し相手と、掃除やベッドメイキングのお手伝いが主な仕事でした。
私はそのボランティア活動に参加していましたが、その仕事内容に首をかしげていました。
ベッドメイキングをすると高齢者の何になるのだろうと。
それには大きな理由として、当時も言われていたことは超高齢化時代がやってきて、介護を担う人材が不足すると特に危ぶまれていたことがあるんです。そのため、市民参加によるマンパワー(要するに人材)の確保にボランティアの活動が不可欠だともいわれていたんです。
2.福祉=奉仕
災害ボランティアがきっかけとはいえ、福祉イコール奉仕というイメージがまだ強く残っている気がしています。福祉イコール公共資源とでも言うべきでしょうか?利用しても、利用する人の財を減らすことのないサービスが「福祉」であるべき、という考えが根底にある気がするんです。その理由として、社会福祉士の資格取得過程にも社会資源の発掘が盛り込まれており、地域住民参画の活動が最も良しとするように習います。その延長線上に、各地域の介護予防事業においても、所属地域における町内活動の活発化が推進されてきました。
私の地域を見ていると、自治会・町内会の高齢化、担い手不足により、逆に介護予防事業が地域活動に利用されているようにも見えて、本末転倒な結果を招いているようにも感じています。
そんな地域住民参加を促す、ボランティア活動の活発化が盛り込まれてきた日本の福祉ですが、ここでもコロナはその足止めをした結果になっています。コロナはすべての活動に小休止を与えました。
ではこの活動休止を経てどう考え直すべきか。
3.無報酬からの脱却
以前にもこんな記事を書きました
“お金は労働の対価です。お金が発生すれば、やれるだけやって終わりでは済まされません。必要な結果まで到達して賃金が発生するのです。だから責任を伴います。だから無償のままでは責任があいまいなままになってしまうのです。”
と2年前の私はまとめました。
今もその考えに変わりはありません。
無償に結果の伴うような活動を求めることはお門違いだと思っています。
偉人もこんな言葉を残しています。
公共の利益のために仕事をするなどと気どっている人びとによって、あまり大きな利益が実現された例をまったく知らない。
我々が食事をできるのは、肉屋や酒屋やパン屋の主人が博愛心を発揮するからではなく、自分の利益を追求するからである。
経済なき道徳は寝言である
無償のボランティアで住民参加による社会活動を発掘すること、人々の奉仕の精神にすがり福祉を組み立てるでは、中世前にさかのぼるような、時代の逆行なのではないかと私は感じています。
福祉は、無報酬にすがるだけでは発展しないもう一つのビジネスだと認識を改め、今一度考え直すべきではないでしょうか?
4.でも子ども食堂
ですが、そう考える私を惑わすものがあります。それが今回の表題である「子ども食堂」なんです。この言葉を前にすると、ここまで述べた話は高齢者福祉に対する認識に過ぎないなと感じるのです。
子ども食堂とはどうあるべきか、いつも考えてしまいます。
今段階で、福祉業界のみならずにいろんな他業種の方が、子ども食堂活動に参加しています。
食事に困る子どもたちに、地域に居場所づくりをするという考え方とその活動は、とても尊敬し賛同をしています。そう思いながらも、子ども食堂の場所が飲食店の片隅だったり、提供される食事がサービス後のあまりもの(正確にはあまりものではないんでしょうが)、二次提供によるものだったりすると、それでいいのかと悩んでしまうんです。
子どもたちに「ここが居場所だ」「自分はここにいていいんだ」と感じさせるためのものが、なにかの副産物によって賄われていないか、それによって子どもたちの自尊心を傷つけていないかが心配になるのです。
さらに、子ども食堂を運営する側に多額の補助金が動いたとすれば、「お金のためにやっているのではないか」と利用する子どもたちに勘繰られる恐れも出てきます。子ども食堂を利用する子どもは、多種多様でしょうが、虐げられ心に傷を負った子どもたちです。それ故に繊細で、勘のいい子が多いはずなんです。そういった「憂い」にはすぐ気づいてしまうと思うのです。
そうなると、子ども食堂が本来あるべき姿は、地域社会における無報酬で地域住民参加が理想なのではないかと考えがたどり着いてしまうのです。
私の考えが堂々巡りを始めてしまうのです。
子ども食堂に関しては、まだまだこれから発展、進展していくものと思います。過去のボランティア元年のころの様に、形を変えてでも子どもたちのためになるものになるよう願います。