ヌーソの皿の上

福祉とpc関係の記事です

ボランティアについて

 

ボランティア元年

私はボランティア元年という言葉ができた頃、ボランティア活動をしていた人間です。
福祉という言葉の前に、ボランティア活動そのものの意義を考えてきました。

当時の私は本当に若く、社会経験が全くない人間でした。阪神・淡路大震災直後、自分に何ができるか、どう行動するべきかわかりませんでした。テレビなどでボランティアが必要だという言葉に促されるまま自分は、被災地とは全然別のところでボランティア活動をしていました。
ボランティアという言葉が先行しすぎていて、斡旋してくれるところから赴いても、現地でできる活動は本当に必要なことなのだろうかと首をかしげるようなものが多かったです。

当時テレビでその活動について取材を受けるような高名な方の下で、ボランティアをすることがありましたが、その活動そのものより、報道の取材陣が来るというのでその方々の案内役を「させられた」ことがあります。

おしつけてはいない

意志にそぐわないことは、「させられた」になるとは思わないでしょうか?「ボランティアなんでしょ?」「活動の手伝いがしたいんでしょ?」と言われればやらざるを得ませんでした。「ボランティアを受け入れてやった」「受け入れてもらった」という上下関係がそこにあったと思います。私の相手側は、受け入れたor受け入れてやった側は当然のように「おしつけてはいないよ?」「やりたいんでしょ?」でした。
今ならわかるんです。あまりに当時の私は「何がしたい」がありませんでした。ただただ人のためになりたいと思い、「ボランティア」という言葉に振り回されていました。
無念と思う気持ちがありながらも悪いのは自分だと自戒しています。

福祉はかっこいい

紆余曲折がありながらも、自分は福祉の道に進みました。当時の言葉からすれば3K(1980年代からあった言葉で「きつい」「汚い」「危険」の意 今ある言葉よりも古い言葉と思ってください)という言葉を知りながらも現場に入り、そこの大先輩たちからは「福祉の心がない、福祉にはそぐわない人間」と言われてきたのに、未だに地べたを這いずるように福祉の仕事にいます。でも自分は人のために、困っている人たちのために仕事をしている「かっこいい」仕事をしているとまだ思っています。「福祉がしたい」だけはぶれていないのです。

現代のボランティアの人たち

今はボランティアを受け入れる側の人間ですが、今ボランティア活動をされている方々には脱帽しています。「何がしたい」が全くぶれていなく、その活動を続けていらっしゃるんです。こちら側もその意志にそぐわない活動は強要するようなこともありませんが、あげ奉るような強い賞賛もしていません。「ありがとうございました」の儀礼的な言葉だけで活動を続けていらっしゃるのです。「何がしたい」が全くぶれていらっしゃらないんです。
継続こそ力、その活動の力強さに、当時浅はかだった自分は敬服をしています。

尊敬・敬意している上で申し上げたいことがあるんです。もちろんボランティア活動そのものではありませんが、辛辣になります。
ボランティアというのは無責任です。それが素晴らしい活動でも、その長い継続も、地域福祉への貢献もです。

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悩み

ボランティアと福祉

日本の福祉の歴史をひも解けば、その根幹は究極の無償行為です。大規模な寄付行為により、地域福祉に根を下ろし、現在の高齢者・障がい者・子どもの福祉の支柱となりました。ですが、介護保険を皮切りに、自立支援法・子ども子育て支援法が制定され、福祉の世界に民間企業が参入しました。ここから、「福祉ビジネス」という概念が福祉全体に行き届いたのが現状です。福祉=無償行為だったのが、福祉≠無償行為となりました。世界的な流れから言っても、なるべくしてなった社会のシステムです。そこに善悪はありません。

日本人は昔から「金儲けは悪」という鼠小僧的概念が強い傾向にあります。この考え方が福祉におかれれば、さらに強い傾向を持ちます。民間企業の参入はしても、福祉は未だに「無償行為」に近いものであってほしいという考えを持ち続けていないでしょうか?それが約10年前における特養老人ホームの内部留保という着目点において、余剰金は福祉への再投資をするべきだという考えに至ったのだと思っています。特別養護老人ホームが当時なぜ内部留保を多く持っていたかについては、介護保険導入当初にまでさかのぼることになり、それにも一長一短な部分があって善悪を問えないことだったと思います。

よって福祉は民間企業という営利目的を許すのに対し、昔からの福祉という概念、無償行為も日本には混在しているといえないでしょうか?この混在した考え方の下では、ボランティア活動そのものが搾取されていくとは思わないでしょうか?ボランティアを「やりたいんでしょ?」と突きつけるものにしていないかと思うのです。ボランティア活動は、その必要性に対し個人が行う行為です。ボランティアを受ける側やその第三者があり方まで決められません。それでも福祉の世界に必要な行為、活動なのであれば、社会的賞賛だけでなく活動そのものを取り入れて有償化することこそが、現代の福祉に必要なのだと思うんです。それはそこに責任が発生するからです。

お金は労働の対価です。お金が発生すれば、やれるだけやって終わりでは済まされません。必要な結果まで到達して賃金が発生するのです。だから責任を伴います。だから無償のままでは責任があいまいなままになってしまうのです。

有償ボランティアという言葉もありますが、せめて交通費と、モノが必要ならその原価まで
を請求することをボランティアとしませんか?そこに日当に近いお金やお弁当代が発生することを有償ボランティアと位置づけないでしょうか?そしてその枠組み以上の行為で生業とするものを福祉従事者としてはどうでしょうか?
明確な線引きを引くことが、今頑張ってボランティア活動をされている方々への敬意だと信じています。