ヌーソの皿の上

福祉とpc関係の記事です

私の目から見た認知症と高齢者の姿

認知症って害悪でしかないんでしょうか?

 

連日ニュースをチェックしていると、家族介護に苦しんでいる方やヤングケアラーの問題を目にしない日はありません。
大切な家族が病魔に蝕まれ、家族介護で労苦されている方々が、認知症を憎むというのは当然だと思うんです。

ただ、自分自身が認知症に罹患したいか?と考えたことはあるでしょうか? そう考えるとちょっと視点が変わると思うんです。

特に私はとても弱い人間で、自分の場合、余命宣告を受け止めることが出来ないような気がしています。
その宣告を受け、自分の死を見つめ続けたり、それとは逆に残りの人生をできるだけ「死」を考えないように集中する生活を考えると、恐怖でおびえてしまいます。

もし、その恐怖から逃れられるなら自死すら考えてしまうような気もするのです。
でも個人的には、自死安楽死も反対派の人間ですので、そんなことはしないつもりですが・・・。

そんな自分なら認知症になり、その「死」の恐怖から逃れられるほうが、楽になれるのではないかと思えるのです。

病気になりたいという言い方はあまり思わしくない言い方かもしれません。
ですが、認知症という言葉は最近できたものであり、老人の「ボケ」「痴ほう」という意味ではもっと古くからありました。

2000年前の中国で、政権争い中の政治家が、高齢のため「ボケ」たと思わせ、政敵である相手を油断させたという話もあります。
また、現代でも95歳を過ぎると男性の51%、女性の84%が認知症であるとも言われています。
となれば、人は「ボケ」ることがデフォルト(設定されている標準の状態)なような気もしませんか?

レカネマブなどの治療薬も出てきて、これから重度の認知症になる人々は減っていくのかもしれません。
でも、認知症は自分自身の死への一つの防衛反応だとしたら、この薬は治療というより「アンチエイジング」という言葉に近いような気がしてくるのです。

前頭側頭型認知症等になった場合は、性格の変化が起きるとされていますから、この問題には抗い、治療薬が欲しいと思います。
それを前提としたら、認知症は、自分にとっての「豊かな老い」に悪影響ばかりではないのかもしれないと思えるのです。

認知症に罹患したからといって、その人らしさをすべて失うわけではありません。
私が介護員だった頃は、認知症が重い方の棟のほうが楽しく働きやすかったイメージがあります。

それより認知症がない、もしくは認知症状が軽い方の棟は、まさに高齢者のありのままの姿が垣間見れる印象でした。ストレスを抱え、抑うつし、表情の重い方が多い印象でした。
その姿は現役から引退した、まさに歴戦を生き抜いた戦士の、疲れ果てた姿のようでした。

 

その疲れた体が回復することなく、次は己の死と向き合っているとしたら、せめてその「死」の恐怖から遠くのところで余生を過ごせたらな、と当時もよく思っていました。

認知症は、完治を目指す病というより、共存すべき防衛反応なような気がしています。