ヌーソの皿の上

福祉とpc関係の記事です

コロナと感覚論

 

コロナに気づかされたこと

 

まだ終息はしていませんが、コロナは人間社会のウィークポイントを鋭角についてきたと思っています。様々なテクノロジーが発達した現代でも、パンデミックの対応に世界は大混乱が起きました。新型インフルエンザの時のようなマネジメントをできなかったのがそもそもの始まりであり、情報は錯綜し、国は緊急事態宣言を発出したため、人は外出が制限されることになりました。外出ができない、外食ができないことの窮屈さ、人と会うことができないことの辛さ。われわれ人間は随分疲弊したとは言えないでしょうか。そんな中で私が一番気づかされたことは、人間も想像以上に動物的なんだということでした。

 

コロナ禍で注目を浴びたのはzoomの躍進ではないでしょうか?使いやすいユーザーインターフェース、管理しやすいアカウントは外出が制限されたコロナ禍においての必需品となったといえます。

でも考えてほしいんです。電話ができて130年、携帯電話が主流になって20年くらいでしょうか。なぜ電話だけでは駄目だったんでしょうか?顔を見ることができるようになったら、なぜリモートワークができるようになったんでしょう?それは顔を見るということは表情をみるということであり、表情をよむ視覚という大きな情報が得られたからですよね。

それでも大事な会議などは直接会って行ってはいないでしょうか?感染症対策分科会の方々も、重要な発表は直接会見という形をとっています。人は人がそろっていると重要な会議・会見なんだと感じないでしょうか?

zoomなどのテクノロジーが発達しても、われわれは動物的な「感覚」にとらわれていると感じるのです。

 

 

意識が高い、低いにかかわらず、人は自分を「理性的であり、エゴをコントロールできている」と思っている節がある気がするんです。持てる力の限り、理知的に物事をとらえ、アルトゥリスト(利他主義者)な考えに基づき行動している。ここまでいうと大袈裟ですが、そんなところはないでしょうか?

でも本当に「理知的」に物事をとらえられているでしょうか?本当は直観的、感覚的に物事をとらえてはいないでしょうか?私は学者ではないので専門的なことはわかりません。ですが、言えるのはこの感覚的な人が福祉業界は多いということです。

 

そのルールはオーソリティorマニアック ?

 

「なんかそれってだめだよね」という言葉を福祉現場でよく聞くことがあります。いくら国家資格をとった専門職といえども、各利用者にあわせたケースワークにおいて、すべてがエビデンスに基づいた言葉、行動にならないときはあります。でも人に関することですから、正確な正解がないときにこの言葉が出てくるようです。この言葉そのものが悪いと言っているのではなく、これを解とする会議になっていないかが一番問題だと思います。

福祉の現場はそのほとんどが施設です。施設とはどのような利用者が対象でも、集団で暮らす一つの家なのだといえます。自分の家に置き換えてもらったらわかりやすいですが、一人暮らしから大所帯の家でも家独自のルールはないでしょうか?ゴミ箱の位置はここ、夜寝るときは電気を消す、ゴミ当番・掃除当番の順番、その家で円滑な関係を保つためには必要なルールだったとしても、それはほかの家で通用するものではありませんよね。つまり「右でも左でもいいこと」なはずなんです。でもこれに何らかの回答をつけてルール化はされていると思うんです。それは国家資格者の学術的エビデンスなどでは証明されないもの、「感覚」ではないでしょうか?感覚はあくまで感覚であり、自分は違うと思う、違和感、不快感で左右されルールが固定されていきます。でもその感覚はとなりの施設では通用しないことを理解してほしいのです。

 

 

また、そのルールは誰が決めているでしょうか?民主的、多数決によって決めているでしょうか?家に置き換えたとき、夫婦2人暮らしの家なら多数決にならないですよね。でも2世帯位の家になると突然多数決がすべての決定権になるでしょうか?多人数の施設の中でも同じことが言えると思います。多数決という言葉にごまかされ、実態の見えない発言権の強い人や声の大きな人の誘導によって影響を受けていないでしょうか?「感覚」の恐ろしさはそこなのだと思います。言葉や根拠に裏付けされないものは、感覚の鋭さなどではなく、その場の発言権によって左右されてしまいます。

 

 

スケープゴートの原因にも

 

福祉現場で感覚的な人が多いと感じている理由がもう一つあり、それはスケープゴートです。スケープゴートとは集団の中で罪や責任をかぶせ迫害されることですが、それよりも直接的な意味の「生贄」ということばがわかりやすいです。福祉現場の「いじめ」とちょっと違うのは、仕事の責任問題が「誰」によって左右されるところです。職場で上位の立場の人には言えないようなことが、その職場での下位に位置される人の時には、厳しいお叱りをしていないでしょうか?上位の人の時にはいえないから、下位の人の時にはきつめのお叱りをし現場の雰囲気を調整している・・・。なんてことはありませんか?これは生贄ですよ。でもこの職場の上位、下位はなにで決まっているのでしょうか?役職者だからと言って必ず上位とは限らないですよね。でもその線引きよりも、そのようなことにならないように一人ひとりが行動できているかを問いたいんです。そのような状況を作っているのも外ならぬ感覚で左右されているからです。

 

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おなか減った

戒めます

 

このように説き伏せても自分の感覚を疑わない、自分は感覚で言っていないという人も存在します。それは果たして理知的といえるんでしょうか?私はこのような文章を書いてしまったので、もう一度自分が感覚論でものを言っていないか、自分を戒めたいと思います。